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■江戸末期 |
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このように京焼の黄金時代は、元禄文化の上に仁清、乾山を頂点として開かれたが、第二の京焼の隆盛期は、その後文化・文政期を中心に築かれた。
特に画期的なことは、江戸初期以来、色絵陶器の焼成を伝統としてきた京都において、本格的な磁器の焼成が始まったことである。
この新風を吹き込んだのは、伊万里磁器の大量流入と、奥田頴川をはじめとする磁器制作に打ち込んだ名工たちの輩出であった。
奥田頴川(1753〜1811)は、豪商の生まれながら製陶を好み、粟田に窯を開いた。
彼の作風は、赤絵呉須の模様を最も得意とし、また古染付や交趾窯をまねて非常に巧妙で雅やかな磁器を制作した。 頴川が京都のやきもの界に残した功績のなかで、この磁器焼成の大成とともに忘れてはならないことは彼の門下から青木木米、仁阿弥道八、欽古堂亀祐、三文字屋嘉介などの多数の名工が現れ、伝統的な京焼の全盛がもたらされたことである。
青木木米(1767〜1833)は、仁清や乾山と並ぶ「京焼名工」の一人で、主に煎茶器を得意とし、頴川の磁器製法を受けてその芸術性をさらに深めた陶人である。
木米は祇園新地縄手白川橋畔のお茶屋「木屋」の長男として生まれ、幼名は八十八といい、文人画の分野でも高い評価を得ている。
一方、西村(永楽)保全と和全親子による永楽焼や、頴川同様、海老屋清兵衛の出現など、それぞれ独自の個性を持った名工たちが育ち、華麗な京都の陶磁器を開花させたのである。
さらに彼らの京焼の陶工たちは、近畿ばかりでなく、中国・四国・北陸など各地の窯に招かれ、指導にあたったので、京焼は全国にその影響を大きく与えてきた。
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