京都産業のさきがけ



京都看病婦学校
看護新島襄がアメリカ人宣教師ジョン・C・ベリーの協力を得て同志社病院と共に開設した看護婦学校。正規の看護婦学校としては西日本初、わが国二番目の開設である。明治19年アメリカで最初の有資格看護婦としてアメリカ看護史に名を残すリンダ・リチャーズが就任、近代的看護教育が本格的に日本で開始された。明治25年からは貧しい人々に無料で巡回看護を始めたが、こうした派遣看護を行ったのも、わが国としては初期のものである。新島の没後は佐伯利一郎の管理となり、京都産婆学校が併設された。明治39年経営は同志社の手を完全に離れたものの、京都看病婦学校は戦後の新制度に切り替わるまで存続し、60余年にわたって近代看護技術を身につけた多数の優秀な人材を地元のみならず全国に送り出した。
写真提供/同志社社史資料室





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