尾形乾山

野々村仁清に陶技を学び、山城国鳴滝村泉谷(現在の京都市右京区鳴滝泉谷町)で窯を開く。鳴滝が京都の乾<西北>の方角にあたるところから「乾山」の名を冠した。 仁清的な作風に加え、中国の絵高麗の技法やオランダ陶器の技法などを学び、和漢の知識に裏付けされた陶器をつくった。また、光琳の絵付けによる合作を出し、清新な意匠の絵色の傑作が多い。後半は二条丁字屋町に住み、「焼物商売」と称して食器類を多くつくり、「乾山焼」の名も普及していった。この「乾山焼」は、その意匠力で人気をはくし、型を使っての量産化を行った。



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