山口玄洞(やまぐちげんどう)
医師の子として生まれる。父の死後、大阪の太物商土井善助商店に住み込み、事務に奮闘する。21歳の時に主家の破産に遭遇。独立して毛布、金巾、モスリンなど洋反物のブローカーを始めると数年で商運が開け、巨万の富を得る。合資会社山口綿花商店を創設して屈指の綿花商となり、多額納税者として貴族院議員にも就任した。第三十四銀行、大阪モスリン、共同火災海上保険などの重役も務めるが、大正6年には事業から手を引き、自宅で茶道と信仰の生活に入る。自らの財産を公共事業や社寺への寄進という形で社会還元、神護寺の金堂、毘沙門堂などは山口の寄進によるもの。



都の人列伝