稲畑勝太郎(いなはたかつたろう)
中京区烏丸御池生まれ。明治10年京都府の留学生として渡仏、リヨンで染色や応用化学を学ぶ。帰国後は京都染工講習所講師を経て京都織物会社技術長となる。明治23年「稲畑染料店」を開業してパリの色素、薬品会社等と次々に代理店契約を結んで染料を輸入、自ら改良を加えて染屋の技術指導につとめた。たびたび海外に赴き、明治30年モスリン研究のための三度目の渡仏の際にはリョミエール兄弟が発明したシネマトグラフを持ち帰る。これは日本の活動写真映写機第一号で、四条河原町で試写会、新京極の東向座などで興業を行い好評を得た。明治33年軍服のカーキ色の染出に成功して実用化。日仏協会評議員、パリ万博評議員を務める。また妻のトミが京都音啓蒙運動の支援者であったことから左京区南禅寺の自宅は京都の音楽活動の源泉となった。



都の人列伝