『梶田貫主講話』

・・・・お釈迦さまが説かれた真理は、縁起という言葉で表わされます。縁起というのは、現代の言葉でいうと、相互依存性とでも申せましょうか。すべての存在は、原因と条件が整うことによって存在しているということです。 何ものも他のいのちと関係なく、単独で存在することはできません。個々のいのちは、お互いに支えあい、傷つけ合いながら、すべて他のいのちの存在を必要欠くべからざるものとして存在しています。 私を存在させているのは私ではありません。無数のいのちの重なりが私といういのちとして現われているのです。まさに私は、生かされて生きているのです。 南無阿弥陀佛は、一般的には、死者を弔う言葉として多く用いられておりますが、法然上人が説かれた南無阿弥陀佛は、自分自身が阿弥陀仏の国へ生まれるために称えるものでした。そしてそのことが生きていく上での心の安らぎにもつながっていたのです。 この世には、人間の努力でどうにかなることとならないことがございます。与えられた環境の中で暮らしている訳ですから、各自にできることは限られています。しかし、未来に希望が持てるように、努力できる人間は努力してゆきたいと思います。 自分なりに精一杯生きたとして、結果的に努力が報われなくとも仕方ありません。自分一人で生きている訳ではないのですから、すべてが自分の思いどおりにならないのは、当たり前のことです。生きてゆく上では常に結果より過程を大切にしてゆきたいと思います。 私にとって南無阿弥陀佛を称えることは、他のいのちによって生かされている自分が、与えられている環境の中でありのままに生きてゆきますという自覚を日々新たにしてゆくことです。 どのように生きようとも、自分らしく生きてゆけば最終的に私を迎えて下さる大きな方、すなわち阿弥陀さま、にご縁があるというのは有り難いことです。 日本人は、これまでゆゆしい環境破壊を行ってきました。山や大きな岩、そして森を神と見なす神道も、他のいのちをなるべく殺さない生活を勧める佛教も、真の意味で日本人の文化とならず、その行動に歯止めをかけられなかったということは本当に淋しいことです。・・・・ (梶田真章貫主講話より抜粋) 梶田真章/法然院貫主 1956年生まれ。 '84年第31代貫主に就任、現在にいたる。 共著書「京都法然院歳時記」(京都書院)、「フィールドガイド大文字山」(ナカニシヤ出版)、「京都の古寺から2 法然院」(淡交社)ほか

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