母のお話し

1999年11月7日、最愛の母は他界しました。

(くわしくは、弟のページ『ツヨシノサイト』母の思い出。をごらんください)

私と母は、お互いに依存しあい、親子というより姉妹のような、友達のような

とても深くつながっていた関係だったように思います。

母が癌を宣告された時、まわりは私の方がたおれてしまうのではないかと

ずっとだまっていてくれました。

でも疑い深い私は、手術のあと真実を知り、やっぱり体調をくずしてしまったんですが、、、

ちょうど、母の手術の時、息子も入院していたので

強くならなくっちゃと、苦しかったな、、、

胃を全部摘出した母は、少ししか食べられず、それなら少しでもおいしいものをと

インスタントやレトルトのものが嫌いな母のために手のこんだ料理を

おしみなく作って差し入れしました。

今から思えば、母の注文に答えることが、行きがいになっていたような気がします

母がいなくなってこの3ヵ月、何もする気がしなくて

宇宙にひとり放り出されたような、ふわふわした、ぼんやりした毎日、、、

「いつまでメソメソしてるの。あんたはたくちゃんのおかあさんやろ、しっかりしよし」

そんな声が天国から聞こえてきそう、、、

 

5年半のあいだ、入退院をくりかえしていた母は、最後の半年間は、家で点滴をしながらの

生活でした。父は母のために病院へ毎日通って、点滴のつけかたを習いました

私も実家への行来は体力的なしんどかったけど、あの忙しさは心地良かったように思います

寝たきりの母とたわいのない話しをしたり、つまらないことを相談したり

そして甘えることで母が長生きするんじゃないかと、クリスマスに洋服をねだりました

、、、、、叶いませんでしたが、、、、、

亡くなる2週間前、衣替えを手伝ってあげたのですが、ベッドの上から指示を出す目は

どことなく淋し気で二度と着ることのない服をとても愛おしく

ひとつひとつ見つめていたのでした。

腕がだるいと言うので私の腕が疲れるのも忘れてずっともんであげました

そのころはもう一口も食べられなくなっていたので私のできることはこんなことぐらい

腕をもんであげることが今の私の幸せだと思いながら

そしてあと何回もんであげれるんだろうとも思いながら

毎日、もんであげました。

 

あの日、息子の英語検定試験がありました

突然母のようたいが悪くなり救急車で運ばれ、私達家族もいちおう試験の用意をもって

病院へむかいました、、、まさか命の火が消えようとしているなんて

そのときはみじんも思わなかったのですが

父が病室の外へ私をよんで

「もう、たぶんつぎ意識がうすれたら、あかんと思う。覚悟しときや」

とつげました。

頭の中が真っ白になって涙があとからあとからわいてきて

そんな顔では病室へは戻れません

癌が再発していることはもちろん母は知りません。絶対悟られたらだめだと思っていたので

必死で笑顔を作って戻りました

「たくちゃん、試験は何時?」苦しそうな息づかいで母はきいてくれました

ここで試験をやめたら、感づかれる、、、いかなくっちゃ、、、

医者は家に帰してあげるようにおっしゃいました

私と息子は試験会場へ行くことにし、主人と、父と弟が、母をつれて帰ることになりました

母は、さっきよりも、ろれつがまわらなくなっていましたが

私に、なにか言おうとしました。

でも「しんどいやろ、しゃべらんとき」と止めたのです。

もしも遺言なんか残そうとしているのなら、、、と思うと

怖くて、母には最後まで知らずにいてほしかったし、気づかれたくなかったし

試験が終わったら実家に行くつもりで「じゃあ、あとでな」

と、車を見送りました。

まさかそれが、最後になるなんて、、、、、

 

試験が始まるまで御所のベンチで時間をつぶしていました

さわやかな風、すばらしい秋晴れ

実家へ電話すると、今、トイレに入ってはるからということで

ちょっと安心してまたぼんやり空をながめていました

何を考えていたのか思い出せないけど、、、

そのとき、まだあれから5分しかたってないのに、携帯がなりました

主人からでしたが、なにを言ってるのかわからなくて

「なに、なに、どうしたん?」って私もなんかもうわからなくて

とりあえず試験はキャンセルして病院へ急ぎました

どこを、どうやって歩いたかわからないけど息子の手をひっぱってなんとかつきました

救急車のサイレンが遠く響いて、目の前で止まりました

中から出てきた母はもうさっきまでのあたたかい母ではありません

眠っているみたいだけど、もう息もしてないし、心臓も動いていないのです、、、

どうしてこんなにあっけなく、、、どうして私を待っててくれなかったんだろう

ママっていくらよんでももう返事はありません

その口からはもう二度と、「あっちゃん」って名前を呼ばれることはなくなったのです

内臓がえぐられるような苦しさ、支えてもらわないと立ってられなくて

息ができなくて、あの時の気持ちは言葉では言いあらわせないほどの苦しさでした

 

『ママ、最後、側にいてあげられなくてごめんなさい

でも、いつでも私の心の中にママは生きつづけている

たくさんの思いでがあるから

すごくかわいがってくれたから

私を生んでくれてありがとう

ママの血は琢也にも流れているんだね

ずっと苦しいって、死にたいって言ってたけどようやく楽になれたね

天国でおいしいものいっぱい食べてくださいね』

 

私達家族はとても仲良しだったので、もちろん父と母も子供達の前であろうと

ラブラブぶりを見せつけていましたが

母が病気になってから本当に夫婦愛の強さを痛感しました

すごいなあって思うほど父は母に優しく、その姿に感動したことも何度かありました

私がもし病気になったとき夫はあんなに優しくしてくれるかしらと、ちょっぴり不安だわ、、

 

父はにぎやかなのが好きです

私がもの心ついたころから、住み込みのお弟子さんがいて

その他にも二人のお弟子さん、アルバイトのおばちゃんたち

いつも、ご飯はわいわいにぎやかでした

一人づつお弟子さんも卒業していき、私も結婚して出ていき、

そのうえ着物業界の不景気にともない、アルバイトのおばちゃんも今ではひとり、、、

弟も会社へ行ってて、夜遅いし、ご飯の時は83歳のおばあちゃんと

ふたりっきりになってしまいました。

すっかり淋しくなってしまった山本家。

ちょっと娘の私としては心配です、、、

 

寝たきりでもいいから、もう少し、がんばってほしかったな

そんなふうに言うのは、苦しんでいた母には酷なはなしだけど

まだまだ話したいことたくさんあったのに

聞きたいことたくさんあったのに

涙がかわくまでまだまだ時間かかりそうです。