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ほんものを見る目"と"正直"はあきんどの基本


 光悦垣

 本阿弥光悦(1558〜1637)は、安土桃山から江戸時代初期にかけて活躍したマルチ芸術家であり、"あきんど"です。室町時代から続く家職の刀剣鑑定、研磨、浄拭◇じょうしょく◇を専らとするだけでなく、書画や陶芸、漆蒔絵、建築、作庭など幅広い分野で、その卓越した才能をいかんなく発揮しました。中でも光悦流と呼ばれる書風は、極めて独創的でありながら自由奔放で、緩急の変化に富み、近衛信尹、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と称されています。

 光悦はまた、当代随一の数寄者(茶の湯に携わり、その道を極めた者)としても知られ、茶器の真贋判定や蒐集などを通して、多くの為政者や文化人と親交を深めました。『本阿弥行状記』によると、光悦が名器で知られる瀬戸の茶入れを手に入れるとき、売り主が値引きしようと申し出たのを断り、自分の家財産を売り払ってまで、その言い値の金30枚で買い取ったと記されています。彼は、「一つの道を極めようとする者は、目先の利益や欲に目がくらんでは大成しない」という確固たる信念を持っていました。その話を伝え聞いた徳川家康は、光悦に一層の信頼を寄せるようになったといいます。


母の教えを胸に秘め、利他の心であきないを実践


光悦時の入り口に
立つ石碑
 本阿弥家は、茶屋家、角倉家などと肩を並べる富裕な商家で、自治的気風の強い京都にあって中心となる存在だったようです。光悦は一流の経営者でありながら、利他の精神と慈悲心にあふれ、のちに洛北・鷹ケ峰に芸術村を開いたように、その活動理念は公益性に富んでいました。あらゆる分野で見聞が広く、分け隔てなく面倒見がよかった彼のもとには、その人柄を慕って大勢の知友や門弟が訪れたといいます。

 こうした光悦の人格形成に影響を与えたのは、母である妙秀尼でした。『本阿弥行状記』には、高利貸しをしていた妙秀尼の娘婿の実家が大火で焼けたのを聞き、「貧しい人から吸い上げて蓄えた富は、いずれ災いのもとになり、不幸になるだろうと思っていた」とつぶやいたそうです。妙秀尼はその晩年には、届けられた贈り物をすべて貧しい人たちに振る舞い、90歳で亡くなったときには、わずかに唐物の反物一つ、浴衣、木綿のふとんしか残っていませんでした。のちに光悦はその母親像について、「商売人としてだけでなく、人間として正しい生き方を教えてくれた人」と回顧しています。

 徳川家光をして「天下の重宝」と言わしめた、光悦の優れた人間洞察力や芸術的センスは、まさに偉大な母・妙秀尼の存在があってこそ生まれたものだったのです。
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