1999 DECEMBER
NO.290
KYOTO MEDIA STATION

特集

2000年−世紀の変わり目の年に思う
2.求められる新システム

<日本経済の活力とベンチャー企業>
その意味で、今後、日本経済の求められる新しいシステム改革をいくつかあげておきたい。その第一はベンチャー企業の活性化である。
よく知られているように、わが国では長年にわたって新規開業率が低下し続けている。会社設立ベースで見て、アメリカの3分の1程度の4〜5%にしかならない。これにはいろいろの原因があろうが、日本人はよらば大樹の陰という志向が強く、独立精神に欠けるなどという妄説を私は採らない。独立開業を妨げている要因があるのだ。その一つは、新企業に対する社会的な資金供給システムの不在である。
企業の新規開業コストは産業の高度化とともに上昇してきた。個人でこの資金を用意することは次第に難しくなっている。日本では、なかなか税制の改革、規制緩和がすすまず、多様な資本市場の発展を阻害してきた。
1999年秋に、商工ローンに対する社会的批判が高まったが、リスクマネーの供給市場がないために、特殊なノンバンクが違法行為・反社会的行為に手を染めるのである。これは、個人金融市場が整備されなかったために、消費者ローンが社会問題化した何年か前とまったく同じ構図である。
最近になって、東京や大阪の証券取引所で、ベンチャー企業対象市場創造への取り組みが加速されてきた。日本版ナスダックの活動にも期待が集まっている。その他にも、キャピタルゲイン課税の緩和、複数投資損益の合算課税制度、個人の投資損失の損金算入など、検討するべき項目は多々ある。
アメリカのナスダックでは、毎年数百社が上場する一方で数百社が上場廃止になるという。その3分の1は上場基準を維持できずに撤退するものだそうだ。つまり、アメリカの産業界は活発な新陳代謝がおこなわれているということである。
そうした新陳代謝、つまり、資源の社会的再配分が常時おこなわれていることが経済の活力の真の姿であろう。

<企業家精神の涵養ために>
新規企業の活動のための客観的条件として資本市場の整備、キャピタルゲイン税制改革についてふれたが、主観的条件としての企業家精神の涵養、奨励も重要である。
今、全国の大学で、企業家育成プログラムが花盛りである。学生のうちから独立開業を志向する若者は、少数派であるにしてもたしかに存在する。しかし、よく彼らと話してみると、働くということについて、社会について、会社について、驚くほど無知である。そもそも経済社会の常識がほとんどない。
考えてみれば当たり前の話で、多くの若者は初等教育、中等教育を通じて、経済社会の現実にふれる経験をまったくもたずに育っている。
他の機会にも書いたことだが、初等教育の段階から、経済社会の現実を教育する必要がある。まず、知識の絶対量が不足していることもたしかであるが、単なる知識として教え込むのではなく、体験させる必要がある。
経済社会の教育に限らず、初等・中等教育一般についていえば、ゆとりの教育などといって、教育内容を削減したり、時間数を減らしたりなどはとんでもない方角違いである。子どもたちに何をどのように教えるかを全面的に再検討するべきである。(大学教育自体、内外の情勢から大きな変革を迫られていることについてはここでふれる余裕がない。)

図2 創業時の障害



3.国づくりの基盤を設計する

<国家目標は個人の生活の充実>
日本経済が成熟の度を加えてきた今日、目標喪失の時代とか、価値観の多様化とか、社会的なコンセンサスが形成されにくいなどといわれる。
しかし、国家はいつの時代も国民の生命・財産を守るための機構である。われわれが見据えなければならないのは、われわれ自身が生命・財産を守りよく生きる(WELL-BEING)ために、日本においてどのような国づくりを進めていくかということである。
個人生活の現実を重視し、あるべき生活のために考えていかなければならないこととして、たとえば、長く世代を継いで住み続けられる良質の住宅の供給は重要である。たとえば、少なくとも100年はもつ住宅、宅地面積としては都市で100坪、地方で300坪を確保すること、そのための税制の整備が必要である。
また、先にも触れた自由で高度な教育を実現することも重要である。公立学校の学区制などの規制を廃止して、自由にどこでも学びたい先生から学びたい科目を、適切な体系の下で組織的・効率的に、どの年齢でも学べる仕組み、少人数クラスの実現、教員の質の向上などのために、教育への大投資が必要になる。

<若者が主役>
まちづくりもそうした分野の一つである。都市計画は従来の法律の枠組みでは最終的に建設大臣(つまり建設省)によって、議会に諮ることなく、住民の合意をとる必要もなく、作成されてきたが、阪神大震災以後、神戸市に典型的に示されたように、自治体レベルでは、そのような枠組みそのものが揺らいできた。
しかも、これも他で書いたことがあるが、それは未来の生活をになう若者が自ら構想するべきである。そのような力をもつことを奨励し、そのような力をもてるように教育し、そのような実践ができるようにシステムを整備することが大人の役割だろう。
新しい年、新しい世紀に向かって、京都からそうした新しい試みがはじまってほしいと願わずにはおれない。
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