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■仁清 |
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これら京窯による京焼が一層盛んになり、各地の窯業にも大きな影響を与えるようになるのは、野々村仁清(清右衛門)が、御室仁和寺の門前に開窯してからであった。
仁清は丹波国桑田郡野々村(京都府北桑田郡美山町)の出身で、丹波焼の陶工であった。
粟田口を中心とする京焼がようやく盛んになりかけた江戸時代正保初年(1644)頃、御室仁和寺前に窯を開き、本格的な色絵陶器を制作した。
その華麗で雅やかな仁清の色絵陶は、御室焼・仁和寺焼として大いにもてはやされ、京焼の作風が大きく変化していった。
仁清独特の作風が京焼諸窯に影響を与え、それまでの「写しもの」を主流とする茶器製造から、多彩な器形と華やかな色彩の「色絵もの」へと転換していったのである。
特にその影響を強く受けた粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や、洛北御菩薩池の各窯では、数多くの色絵陶器がつくられるようになり、なかでも江戸初期から中期にかけてつくられたものは、現在「古清水」と総称されている。その頃から京都は製陶器の中心地となっていった。
古清水の色絵陶では、草木文様や自然の風物を意匠してあらわした素朴なものが多く見られるが、その作陶範囲はとても広い。
この頃の色絵陶はその絵付法や意匠において、当時すでに完成されていた他の諸工芸−漆工、金工、染織−などの技法や意匠を要領よく取り入れ、みごとに転用し、完成されたものがある。
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