Vol.2


神は御国にありて



そ、と圭一は思った。

これで21件目だ。面接が終わりビルの正面玄関を出ると、思わず呪詛の言葉が口を付いてくる。一体何件会社を回ったら俺を雇ってくれるんだ。

明日も予定は入ってるけど、もう面接なんて行ってられるか。

圭一にそれほど堪え性がない訳ではなかった。大学一回生の夏休みには、酒屋の配達とガソリンスタンド、そして家庭教師と3つのバイトを掛け持ちで1日も休まず働いたこともあるぐらいで、忍耐力と我慢強さは人一倍ある方なのだ。しかし、さすがに春以来の状況は辛かった。システム営業、カスタマーサポート、制作補助、編集、サービスエンジニア、一般事務、引っ越しなど、考えられる仕事は殆ど当たったのに、返事は全て「NO」だ。この病気を抱えての就職はそれほど甘くないとは聞いていたが、まさかこれ程とは...。思わず天を仰ぐ心境になってしまう。

圭一が就職活動を始めたのは、IDDM発症後3週間の入院が終わってからのことだ。留年で半年遅れた大学卒業後にようやく転がり込んだ前の会社は、圭一が「病気療養のため2週間入院する」と告げると、試用期間中だったためさもそれが当然のように解雇された。もちろん理由はその病名が「糖尿病」だっただからだろう。解雇の撤回を求める交渉の席上、人事担当者は「長期欠勤が理由です」を繰り返すばかりで、結局話し合いは最後まで噛み合わないままだった。



ワンルームマンションの自分の部屋に戻ったものの、何もする気力が起こらない。背広のままベッドに倒れ込んでいると、ふいに鞄の中から電子音のミッキーマウスマーチが流れ出した。ケータイにメールが着信したらしい。跳び起きてケータイを取り出し、フリップを開いて液晶画面を確認するが、初めて見るアドレス。u-me@...誰だ、こりゃ。とにかくメールを開いてみる。

 はろー、K1!ワ・タ・シ。
 いろいろ迷ったけどやっぱ
 i-MODEにしちゃった(笑)。
 もし時間あったら、知らせ
 たいことがあるのでTELち
 ょうだいネ。電話番号は…

あ、有美子だ。間違いない。圭一のことを“K1”と書いてくる人間、しかも女のコはそう多くはいない。会社関係にはいないし、邦画のメーリングリストを通じで知り合ったコか、そして直接メールで話をしたことのあるコぐらいだろう。有美子は去年の秋、圭一が入院中に同じ病棟に入院していた1つ年下の女のコだ。



「何で私がこんな病気になんなくちゃいけないのよっ!私が何か悪いでもしたの?どうして、どうしてっ...!」

今どき珍しいコだった。入院2日目、有美子は全く手がつけられない状態だった。彼女は昨日高血糖昏睡寸前でこの病院に搬送してこられたのだが、インスリン導入後の回復は早く、少しやつれてはいるもののほとんど普通の状態に見えるまでになっていた。インフォームドコンセントを積極的に進める病院の方針もあって、ここでは入院直後から患者本人に説明をするのだが、彼女が騒ぎ出したのは、担当の主治医が家族立ち会いのもとナースステーションでIDDMの説明を始めたときだ。

ナースステーションの方があんまり騒がしいので、圭一もパジャマ姿で覗きにきたのだが、周りにはナースは勿論、時ならぬ騒動に入院中の患者がたくさん集まってきていた。



「冗談じゃないわ。毎日毎日ご飯の前にいちいち注射なんてできる訳ないじゃないの。しかも一生治らないなんて..酷いじゃない!それにどうして違う糖尿病の年寄り連中と一緒にされなくちゃ...」

次の瞬間、圭一は有美子の目の前に進み出ると、右手で彼女の横っ面を張りとばしていた。思いっきり。

「ふざけんな。誰が好きこのんで入院なんかするか。俺はお前が誰で、今までどんな人生を送ってきたのかも知らん。でもな、幾ら自分が不幸な目に遭ったからって、ここにいる人達のことをバカにする権利はお前にはない。判ったか!」

一瞬の間、そのコはぶたれた左頬を掌で押さえ呆然としていたが、右の目からひと粒涙がこぼれると、ナースステーションの床にそのまましゃがみこんで泣き崩れてしまった。

「判ってるわ。...判ってるわよ、そんなことぐらい。判ってるじゃない。判ってるわよぅ...」

そう何度も何度も吐き出すようにしゃくり上げる彼女の姿は、ただ痛々しかった。感情の助けを借り、しかし理性で張りとばしたことに後悔はなかったが、何とも後味の悪いものを圭一に残した。俺だってやりたくてお前をぶった訳じゃない。会社ならまだ仕事の真っ最中の時間、消灯が過ぎるとベッドに入っていつものように眼をつぶるがなかなか寝つけない。右手には痛みとも苛立ちともつかない乾いた感触がいつまでも残っていた。



次の日、朝食後に10時から開かれるDM講習会の部屋に入ろうとしたとき、圭一は思わず目を見張った。昨日のあのコが席に付いているではないか!しかも最前列に。一体何が起こってるんだ。一瞬、圭一はこの事態を理解することができなかった。人違いか。いや、今この病棟に入院しているDMの患者で、IDDMは俺とあのコだけだ。他は全てNIDDMの筈だから...間違いない。昨日のコだ。圭一はしばらく様子を見るため、いつもとは反対に最後列に座ることにした。

定刻になり、講習を担当している医師が入ってきたが、やはり一瞬びっくりしたようだ。無理もない。昨日あのコにIDDMの説明をしていたのはその医師だったのだから。しかし、気を取り直して手に持っていたプリントを配るといつものように講習を始めた。その辺りはさすがプロだ。今日は「インスリンと低血糖について」。圭一は途中何度か質問をしたが、そのコは一度も顔を上げることなく、配られたプリントを一心に読みひたすら何かを書き込んでいた。こうしてその日の講習会は何事もなく終了した。



2日後、次の講習会でもやはりそのコは一番前に座っていた。噂によると、病院の図書室にある「DM」とか「糖尿病」のタイトルが付いた本を片っ端から読み漁っているらしい。圭一もほぼ全て読破していたので知っているが、医学専門書も含まれるそれは、そんなに簡単な内容ばかりではない。それにしてもすごい変わりようだな。さすがの圭一もこれには舌を巻いた。あの泣き喚いていたコがねぇ...。ま、素直に喜んでおくとしよう。思わぬ番狂わせの行く末を考えるうちに、この日の講習会も何事もなく終了した。

圭一はこれが入院最後の日で、もうお馴染みになった「1日1800Kcal」のやや物足りない昼食を済ませると、部屋を片付けて荷物をまとめ始めた。

2週間かぁ、長かったけど終わってみりゃあっと言う間だよな...。独り言をつぶやきながらごそごそと自分の使っていたワゴンを整理していると、ふと背中に視線を感じた。後ろを振り返ると、例のコが、病室の前の廊下から驚いたような目でこちらを見つめているではないか。たまたま病室の前を通り掛かったらしい。

「退院...しちゃうの?」

そのコは唐突にそう話し掛けてきた。この展開はちょっと意外だ。立ち上がって彼女の方に向き直る。

「ああ、今日で最後だ。ところで君はもう落ち着いたのかい?あれから随分熱心に勉強してるそうだけど...」

そうツッコミを入れると顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。ヤバ...。ちょっと意地の悪い質問だったか。しかし、その赤い顔のままいきなり俺の手を引っ掴むと、「ちょっと来て」と言うが早いか、病棟の端を目指して小走りに歩き出した。

「わ。ちょ...ちょっと待って!どこへ行くんだ?」
「いいから」

女のコに「いいから」と言われた時はろくなことがないんだが...。ぐいぐい引きずられるように付いて行くと、着いたところは図書室だった。昼食後で中には誰もいない。

「ちょうどよかった。さ、その椅子に懸けて」

そう言うと、彼女も目の前の椅子に座り一気に喋り出した。

「まだ自己紹介してなかったよね。私は草薙、草薙有美子。21才で大学4回生。あなたは?...そう、丸山さん、ね。へー、歳は1つ上なんだ。実はさ、私パイロットになりたくて、あ、もちろん民間航空のね。学校卒業したらその養成校に行くことに決まってたんだけど、いんすりんイゾンガタトウニョウビョウ...ってパイロットにはなれないでしょ?何故かそれだけは知ってたんだけど、だから病名聞いたときは超ショックでさ、目の前真っ暗になっちゃって、もう誰でもいいから当たり散らしちゃったのね。『私は一所懸命頑張ってるのに、こんなことがあっていい訳がない』って。そのときあなたにぶたれたってワケ。しかも思いっきり(笑)」

「あれは悪かった。ぶったことについては謝ろうと思ってた」

「ううん。いいの。私...あれで目が覚めたから。感謝してる。痛かったけど」

「そりゃどうも」

「あなたの言う通り誰も好きで病気になんかならないんだし...」

「ああ、俺もその一人だ」

「だよね。でも、ひとつだけ訊いておきたいことがあるの。丸山さんは自分がIDDMになったことを納得してる?してるとしたらどうやって?良かったら教えてちょうだい」

そら、おいでなすった。そうだよな。これはIDDMを発症した人なら誰もが一度は突き当たるはずの壁なのだ。

「『丸山さん』はやめてくれ。『圭一』でいいよ。...俺か?そうな...納得はしてないね。IDDMになったことは。全然」

「だったら何でそんなに落ち着いてられるの?」

有美子はたたみ懸けてくる。

「俺さ、無神論者なんだけど、神についてひとつだけ気に入っている言葉があるんだ」

「どんな?」

「“God's in his heaven, All right with the world”ってな」

「何それ、どういう意味?」

「『神は御国にありて、世は全て事も無し』だ。確かに神はいるのかも知れない。でもその神ってヤツは、人間の喜怒哀楽なんかどうでもいいのさ。人が泣こうが喚こうが叫ぼうが、気が向かない限り耳も貸さない。何しろ『神』なんだからな」

「だからそのこととIDDMとどう関係するのよ?」

「IDDMになったことに理由はないってことだ。何一つね。『どうして』を例え三世紀の間ずっと唱え続けても絶対に答えは出てこない。『なったものはなった』んだ。だったらその事実をそのまま事実として抱えていく以外にないってことさ」

「そんなの...ずるいよ! 答えを訊いてるのに『答えがない』じゃ、全然答えになってないじゃない!?」

「そう思うのは君の勝手だ。だけど『理由』を問う限りは、悪循環のループからは抜け出せないね。絶対に」

「判ったよ...。ソレって今は全然納得できないけど、覚えとくわ...。圭一は今日で退院なんでしょう?もし質問したいことがあったら訊いてもいい?手紙とかでもいいから」

「ああ、どうぞ。連絡先は...そうそう、コレ渡しとくわ」

彼女に渡したのは、MLのオフ会用に作った名刺だ。ハンドルは“K1”。

「何これ〜。住所と電話とメール...これはケータイの番号と...ケータイのメール?」

「そそ。手紙でも電話でもメールでもケータイでもケータイのメールでもどれでもどうぞ」

「ありがと...。じゃ何かあったらどれかに連絡させてもらうね」。

「O.K.」

「じゃ、元気でね」

「君もな」

二人は握手を交わすと図書室を出た。俺は残っている荷物を片付け会計を済ませると、入院中に厄介になった主治医と看護婦さん達に礼を述べ病院を後にした。それがこの前有美子を見た最後だった。



液晶画面に表示されているメールの中の電話番号を選択し、ボタンを押すと2回の呼び出し音ですぐに有美子が出た。

“きゃー、圭一だー。久し振りー。元気だったー?”

「ああ、お蔭さんで何とかね」

“ねーねー、聞いて聞いて、私ね、就職決まったの!”

「え?マジ?」

“マジもマジ、大マジよー”

「どんな会社?」

“人材派遣。私あの後さ、パイロットはすっかり諦めて、別の仕事を探してたの。ハードだったわよ〜。会社40件以上も回ったんだから”

40件!40件もか!

「...そりゃ凄いな」

“仕事は流行りのIT関係(笑)で、小さい会社なんだけど、そこの社長が凄い人でさ。面接のときに「私糖尿病です」って言ったら、『俺はクローン病(*)だけど、俺だって働いてるんだから大丈夫。コントロールしたらちゃんと働ける』って逆に諭されちゃってさ。”

「ソレ凄い社長な...。そうかぁ。良かったな、仕事決まって。頑張れよ」

“うん。ありがと。圭一に聞いた『神は御国にありて...』ってあったでしょ。あれってロバート・ブラウニングって詩人の一節なんだってね。あの詩を知ってたから、自棄にならずにここまで来れたんだと思う。本当にそう思うよ。『どうしてって悩んでも仕方ない』ってね”

そうか、有美子はあの詩を支えに...。

“で、圭一はどうなの?”

「俺か?」

俺は...。圭一は口に出かかった言葉を思わず呑み込んだ。

「なかなか決まらないんだけど、また明日1件面接に行く予定なんだ。何とか決めてくるよ」

“そ。大変なんだ...。じゃ、圭一も頑張ってね。ね、圭一が就職決まったら一度会おうよ”

「いいね、それ。それじゃ早いこと決めないとな。」

“うん、待ってる。じゃあねー。”

「じゃ」

神は御国にありて...か。圭一は苦笑すると、くしゃくしゃになった背広を脱いで皺を伸ばし、静かにハンガーに懸けた。自分の明日のために。



*クローン病

「クローン病」とは炎症性の腸疾患で、主に場所は腸だが、口から肛門までの消化管の全てに炎症が発生する可能性がある。今のところ原因は不明。10代後半から20代前半の若者にかかりやすいとされる。先進国に多くみられ、日本でも最近患者数は増加している。具体的な症状は下痢、腹痛、肛門部病変、下血、狭窄、穿孔、膿瘍、発熱など。 原因不明なので、決定的な治療法も薬もなく、根治治療はできない。再燃(再び炎症がおきること)と緩解(症状が一時的に治まること)を繰り返す。しかし、食事無しでも、成分栄養剤(脂肪がなくて吸収されやすいもの)で栄養補給をする食事療法(栄養療法)を実施すれば、再燃の確立をかなり減らすことができる。さらに、サラゾピリンやペンタサなどの薬を使う薬物療法を実施すれば、なお効果的である。現在は特定疾患に認定されており、医療費は一定額以上が免除されている。現在は通院の場合最高月額2000円、入院月額1万4000円の負担。1998年に改悪され、弱者を切り捨てる政府の方針が浮き彫りになった形である。



 トップページ  / DM ノベルズインデックス / Vol.2