Vol.1



霹靂(へきれき)




だろ...。トウニョウビョウ?食事の前に注射...だって?

「びっくりしたでしょ?当然よね。ご飯の前にいちいち注射だモン...。ゴメンね、今までこんなこと黙っててサ」

豆鉄砲を喰らった鳩だって、今の俺よりもう少しマシな顔をしてるだろう。何とか冷静になろうとするが、冷静に唐突な話を始めた彼女を目の前にして、頭の中はますます混乱してくる。そのぐらい俺は動揺していた。糖尿病...マジかよソレ...。


六花とは付き合い始めて2カ月になる。茶髪が「標準」のこのご時世に漆黒のショートカットが印象的な子だ。A型乙女座19才。芸能人なら黒須麻耶に似てるかもしれない。大学のクラブの後輩だが、他の1回生とは違って彼女が入部したのは前期の終わる直前、7月13日だった。明るくて快活な性格だが、どこか人付き合いを避けるような雰囲気があり、そんな微妙な翳のある態度が却って俺の気を惹いたのだ。


付き合い始めたきっかけは今思い出しても笑ってしまう。後期が始まって2週間ほど経ったある日、クラブの帰りに自転車置き場でたまたま六花と一緒になった時のことのだ。

「あれぇ、星野センパイ、下宿こっちだったんですか?」
「ああ、俺は今宮だから。神南も北区だったんだ」
「そーでぇーす。自宅生なんですよ。あ、センパイ、センパイ、早く帰らないと降られちゃいますよ。ほら、雨」

折しも頭の上では季節外れの雷鳴が轟き、今にも一雨来そうな空模様だ。昨日の天気予報は晴れだったのに。すでに辺りには、雨がすぐ近づいていることを告げる埃臭い空気が漂い始めていた。

「そうな。濡れないうちに急ごっか」
「間に合いますかね」

しかしそのささやかな願いも虚しく、自転車置き場を出て100mも走らないうちに叩き付けるような雨が襲ってきた。

「うわっ!うわっ!!」
「ひゃーっ!!」

絵に描いたような土砂降り。運悪くそこはクルマ一台がやっと通れる細い路地が続いているところで、雨宿りすることもできず、二人はひたすらペダルを漕ぎながら大雨に濡れるしかなかった。

「くっ」
「ぷっ」
「うはははははは」
「きゃははははは」

頭の上から痛いほど大粒の雨を受けながら、お互いに顔を見合わせると、どちらともなく思わず吹き出してしまった。こうなると後はもうどうにも止まらない。これだけ気持ち良く降られると、人間もう笑うしかないらしい。

「何これー、もー、はははは」
「サイテーだよ、最低!はははは」

こうなれば後は野となれ山となれである。二人ともテキストやノートの入ったカバンはもちろん、頭の上から足の先までどぼどぼだ。しかし、いちど弾みのついた笑いは治まらない。濡れネズミになりながら大笑いする学生を乗せ、ひたすら走っていく2台の自転車は、傍目から見ればさぞかし奇妙な光景だったろう。
彼女の家に近づいてきた頃、今度は今までの激しい雨が嘘のようにぱったり止んでしまった。

「おいおい、嘘だろぉぉ?」
「あちゃー。ホント、タイミングバッチリですよねー。先輩、日頃の行いですよ、行い。身に覚えありません?ははは。あ、私の家、このすぐ先なんですけど...ちょっと待っててもらえます?」
「ん?別にいいけど...」

雷鳴は早足で遠のいて行く。程なくして、六花は再び自転車で戻ってきた。頭にタオルを被り、手には大きなバスタオルを持って。

「センパーイ、ハイこれ!」
「おいおいおい、いいって。いくら何でも大袈裟だよ、そんなでっかいタオル...」
「まあまあ、そう言わないで。センパイも下宿で一人暮らしなんだから、生活用品には事欠いてることですし」
「....見てもないのに何で判るワケ?」
「外れてます?」

残念ながら当たってる。

「負けたよ。これ借りとくわ」
「あ、いいですよ別に。進呈しますし」
「そうもいかんだろ。近いうちに」
「ふーん。期待せずに待ってますネ。じゃさよならっ」

そう言い残すと六花は自転車に跳び乗り、水たまりのアスファルトの上をさながら雷鳴よろしく去って行った。突然の驟雨は、人の心をほんの少し饒舌にするらしい。

「ありがと」

当惑と嬉しさが綯い交ぜになった感謝のコトバは、しかし彼女の耳には届かなかった。初めてのデートから1週間前のことだ。


その10日後、部室で会うとき以外、二人はタメ口を利くようになった。浪人していた彼女は、俺と同い年だった。


「ホテル...に行くの?」
「そ。ダメか?別に遊びのつもりじゃない」

昨日のことだ。デートの途中、六花をホテルに誘ったのは。

酔った勢いで...とかは自分の気持ちを護摩化してるようで相手に失礼だ。この単刀直入さが女性ウケしない理由かも知れないが、性分なので今さら直すつもりもない。
また、ココロが通じていればカラダまでは...と考える古風な向きもあろうが、女のコとココロを通わせるつもりなら、そのカラダを避けることはしたくない。女のコのココロとカラダ。俺にはどっちも同じだけ大事だ。
ややあって返事がないのでパスタを頬張りながらふと見上げると、彼女はスパゲティを巻きつけたフォークを宙に浮かしたまま、やや蒼ざめた顔色で固まっている。てっきりいつものようにジョークで切り返してくると思っていたが、闊達な六花にしては意外な展開だ。

「フリーズしてるぞ?」

空いてる手の人指し指で、彼女の腕をつつく。

「え!? あ...うん...」

尚も応答無し。

「あのな...嫌なら...」
「そうじゃないっ!」

初めて目の当たりにする六花の生の感情。あまりに突然の反応に、俺は食べかけのパスタを思わず喉に詰まらせそうになり、彼女の大声に周りの客が一斉に振り向いた。その瞬間彼女は我に返った。

「あ、ゴメンなさい!! 私...」

六花も自分で自分の声に驚いた様子だった。俺は行き場を失った喉のパスタをコップの水で流し込み、むせながら答える。

「いや...ぐっ.......俺こそ、気にしたんなら謝るよ。けほっ」

周囲の視線が少しずつ二人から離れ、広いパスタハウスの店内にはまたさっきと同じようなざわめきが戻ってくる。

「鼎とホテルに行くのが嫌な訳じゃないの...。ううん、付き合い始めたときからどこかで『もしかして』って期待してたぐらい。でも...こうやってホントに誘われると、さ...」

彼女はテーブルの上で水に濡れたストローの紙を指先で弄りながら答えを迷っている。どうも「ホテルに行く」以上の事情がありそうだった。でもそれを訊くには今は時間も場所も適当じゃない。

「その答えはまた今度にしよう。そろそろ行かないと始まるぞ」

あのコッポラの娘がどんな作品を撮ったのか、二人とも興味のあるところなのだ。

「そう、だね。...あのさ、明日の晩、空いてる?」
「明日?バイト終わんの8時過ぎだぜ」
「お店の近くのミスドで待ってる。その時話すのは?」
「じゃそうしよう。さ、急ごっか。あと20分しかない。」
「Yes,sir !」

その日は映画が終わった後、すぐに別れた。そうした方がいいと思ったからだ。27才で初監督の作品にしてはなかなかイケていたので、話したいことはいろいろあったけど。


「鼎さ」
「うん」
「糖尿病って知ってる?」
「は?」

今度はこっちがフリーズする番だった。待ち合わせのドーナツショップで熱いばかりで味の薄いコーヒーを啜る俺に、六花が切り出した話はあまりにも唐突だった。

「食べ過ぎでなるヤツでしょ。中年にご縁の深い...」

彼女の表情がごく僅かに、しかし明らかに曇るのが判った。

「そっか。やっぱりね...いいわ。ちょっとこれ見てくれる?」
「ん?万年筆?」

彼女がカバンから取り出したのは、銀色の太い万年筆。に見えた。

「これね、“万年筆”じゃなくて注射器なの。ほら、判る?」

六花が“万年筆”のキャップを取って中の白いカバーを取ると、そこにはペン軸でなく注射のアンプルらしきものと小さな細い針が付いていた。心なしか声がうわずってはいるが、堰を切ったように、彼女は一気に話し始める。自分が「いんすりんいぞんがたとうにょうびょう」であること、高校1年の時にこの病気になったこと、毎日・毎食前に必ず注射が必要であること、調節がうまくいかないと貧血のような症状になること、何十年もするといろいろな悪影響が出てくること、etc、etc...。


「今日はもう止めとく?」

彼女が不安そうな顔で俺の顔を覗き込んでいるのに気付き、我に返る。雷にでも打たれたような顔をしてに違いない。

「あ...ああ。そうしてもらえると助かる」

二人とも暗い表情で押し黙ったまま店を出る。自転車を置しながらやっぱり黙って並んで歩いていく。考えがまとまらない。下宿が近づいたときにやっと俺から口を開いた。

「こっちもちょっとだけ時間くれるかな?」
「うん」
「ゴメンな。そんな病気だって初めて聞いてビックリしてさ」
「うん」
「明日、クラブの例会には来るよな」
「うん」
「じゃ、そのときに」
「うん」
「おやすみ」
「うん」

別れ際にいつもの通り軽く唇を重ねたが、それは初めてのときよりも、もっとぎこちないキス。不安を振り払おうとした二人にとって、お互いの動揺を相手に伝える以外に何の意味のないキスだった。


部屋に戻ると、服を着替えるよりも先に足でノートパソコンのパワーキーを蹴っとばし、Webに繋いだ。いつもなら下宿からはメールしか使わないことにしているが、こんな時は話が別だ。接続料を気にしている場合じゃない。キーを叩き「インスリン」「糖尿病」で検索を懸ける。1万6384件。多すぎ。語句をもっと絞り込まないと。ええと、確か...。さっきの結果に「IDDM」を加え、再度リターンキーを叩く。16件。これならいけるか。なかなか表示されない画面に苛立ちながら、1件づつリンクを辿っていく。


全部のリンクを読み終えた頃には、もう空が白み始めていた。取り敢えず判ったことは、普通の糖尿病とは違って患者数がかなり少ないことと、完治しないこと、良好な状態を保つのが難しいこと、そして対処の方法を誤れば命を落とす場合があること、だ。これは結構シャレにならん病気かもな...。待てよ。そうか、これが六花の「翳」の正体か。成る程な...。


「あれ?神南は?」

次の日の13時、クラブの部室に集まってきたいつもの顔ぶれの中に、六花の姿はなかった。

「へ?1講目終わってから2号館で見ましたよ。構内にはいる筈だけど、何か用事でもあるんじゃないですか」

同じ1回生の三浦が答える。

「そうか。ありがと」

それとも今日顔を会わせたくない人間がいるか、だ。ケータイで呼び出しても留守電のままだ。取り敢えず“Call me back, RIKUKA :-)”のメールを入れておいたが、4講目が始まる時間になっても六花は部室に現れず、ケータイもメールも鳴らなかった。4講目、般教の講義には出席したが徹夜に近かったせいか教授の話は全く耳に入らず、俺は学内ネットワークに繋いだノートパソコンで昨日検索したWebのリンクをただ呆然と眺めていた。


5講目が終わって30分経つ。ここで網を張り始めてからだと50分が過ぎた計算だ。辺りが薄暗くなり、自転車置場から出て行く人間の影もまばらになってきた頃、やっと六花が現れた。

「かな...センパイ、もしかして待っててくれたんですか?」
「ああ、たっぷり待たせてもらったよ、悪いけど。『ていけっとう』について教えて欲しいことがあってね」

その言葉を聞いた瞬間、六花の顔はくしゃっと歪み、目からは大粒の涙がこぼれてきた。

「鼎....」

自転車を放り投げ、六花が崩れ落ちてくる。

「おいおいおいおい、泣くな泣くな泣くな!! 俺が泣かしたみたいじゃないか!?」
「だって...」

頭を抱えて柔らかい髪の毛を撫でてやるが、鳴咽が漏れてくるばかりで、六花は声が言葉にならない。初めて一緒に帰ったときと同じで、また土砂降りの大雨だ。

「あのさ、六花がもし明日死ぬって判ってても、やっぱオレ六花のこと好きだし。それに病気のこと全部教えてもらってからでも遅くないだろ、ホテルはさ」

返事はなかったが、腕の中の六花の頭は確かに縦に頷いた。



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