Vol.1


IDDMになった「意味」




分がIDDMになったと宣告されたとき、あるいはIDDMであることが判ったとき、あなたはどんなことを感じましたか?やはり誰しもが「どうしてこの私がIDDMなんかにならなきゃならいの?」と思ったことでしょう。


しかし、無情にもそのこと自体には何の意味もありません。「『この私』がIDDMになった理由」なんてないんです。どこにも。


実はIDDMになった人が一番最初に直面しなければならないのがこの問題なのですが、我々が一般的に最も信頼をおく対象である医師は、皮肉にもこの問いには答えてくれません(答えられません)。以下病理学的解説は一切無視して、哲学的にいきます。


味も素っ気もない表現で大変申し訳ないのですが、私たちがIDDMになったことそのこと自体には全く何の意味も理由もありません。何か悪いことをしたからでも、その逆に他人の役に立つようないいことをしたからでもない。つまりこれは罰でも報いでもない訳です。人間は「自分自身の存在に意味を求める存在」ですが、そのことは裏を返せば「自分の存在それ自体には何の意味もないから」に他なりません。

さて、通常はそのような理屈を常に意識化して生きている人なんか殆どいませんので、自分の努力や才能とは全く関係なしに巻き込まれる事態が自分にとって都合が悪ければ、たいていの場合、人はそこに「不条理」や「理不尽」を感じます。もっと平たく表現すると「憤り」や「怒り」、「悲しみ」などを感じる訳です。その典型的な例がこのIDDMであることは今更説明するまでもないでしょう。しかし、そうした事実にはもともと意味は存在しない訳ですから、いくらそこに意味を求めても得るものは何もありません。ところが、何の意味も理由もなく自分が苦しい目に遭っていることを認めればやりきれない思いに駆られてしまうので、その事実の受け入れを拒否して、意味や理由を求める。どうしても求めてしまう訳です。で、不毛の堂々回りに陥る、と...。

ここでよく考えてみて下さい。さっきとは逆に自分の努力や才能とは関係なしに都合の良いことが起こればどうでしょうか。まず「不条理」なんか感じませんね。しかし、その事態が本人の努力や才能と無関係である限り、実はその幸福も先の不幸と同じように「不条理」なのです。例えば自分の誕生日は、自分の努力や才能はもちろん、意志さえ何の関係もない事態なのですが、周りから祝ってもらうと嬉しいですよね。これも立派な「不条理」です。ところが、このように嬉しいことや都合のいいことならば、先程とは逆に人間はその事実を簡単に受け入れてしまいます。...人間って随分身勝手だと思いませんか?

このように考えると、「人間には自分自身に何の責任がなくても敢えて引き受けねばならない事態がある」ことを理解してもらえるのではないでしょうか。それが自分にとっていいことであろうと悪いことであろうと(もし受け入れなければ、人間としての成長はそこで止まってしまいます)。私の場合、自分がIDDMになったことに対してはもう何の意味も求めないことにしています。「IDDMになったけど、これが私の人生なんだ」と。完全に開き直っていますね:-)。

そうです。自分の境遇の意味を問うことよりももっと大事なことがあります。

「IDDMになったとき、自分はどう生きるか」


です。すなわちこれは「不条理に直面したとき、人間はどう生きるか」の問いを変形させたもので、実は病気になろうがなかろうが、人間が自分の人生を生き抜いていく上で問うべき問題の構造は常に全く同じなのです。 確かにIDDMは健常者と比べて制約の多い病気です。誤解や偏見も受け易い。いつも注射と食事の量を気にしなければいけませんし、気を付けていても低血糖になることがある。しかし、だからこそ、常に明確な意志と意識を持って行動することができる。私はIDDMになってから、治療していく上で要求されるこの特性を最大限利用させてもらっています。逆に、自分の進む道を一から十まで全部自分で決めなければならない健常者が、その有り余る自由さを持て余し、進むべき方向を考えあぐねている姿を目にすると、「ああ、私はIDDMになってよかった」とさえ思うぐらいです(これは半分冗談ですが(^^;))。

そして勿論ですが、そうした諦観に達する一方で、IDDMの社会的地位を少しでも向上させる機会があれば、逃さず参加するようにも心懸けています。

さて、皆さんはIDDMになった自分の境遇をどのようにお考えでしょうか?もしよければこちらからあなたのご意見をお聞かせください。

文責:能勢 謙介 



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