第13回 大山家族の会 スプリングキャンプ

これは96年の3月21日から23日まで島根県の玉造温泉で開かれた
大山家族の会スプリングキャンプの模様です。



SMBG

SMBG用のスペースで血糖値測定中。手慣れた手つきではありますが、みんなの表情は真剣です。高いかな、それとも低いカナ...。
ほっとひといき

夜のディスカッションの後での1ショット。それぞれのテーマについて存分に話し合えたでしょうか?みなさん長時間お疲れ様でした。
調理実習中

前の晩に決めたメニューをみんなで調理中。栄養の量とバランスには気を付けないといけないのですが、いつもそれが完璧にできている訳ではありません。この機会に基本的な知識と技術を身につけるべく奮闘中。
講演会

最終日、武田先生の講演に熱心に耳を傾ける参加者。

IDDMの人が否応なく直面する厳しい実社会の現状を正確に見据えようとされるその姿勢には私も感銘を覚えました。

武田先生

「大山家族の会」を立ち上げ、ここまで引っ張ってこられたのがこの武田先生です。この講演の内容の要約は以下の通りです。
講演要旨

 それではひとつ目に私が担当しているIDDMの方でAさんの話から。

 この女性は小学生時に発症されているのですが、コントロールが非常に悪く、来院の回数も非常に少ないんですね。来院を促すために電話をすると、家族の方が出られて「本人はもう大人なので、本人自身に任せている」との返事。ところが、そうこうしているうちにAさんの眼の状態が急激に悪化し、硝子体出血のため眼が殆ど見えなくなってしまわれました。ご家族の方から「日本でDMに関して一番の眼科を紹介して欲しい」との電話がありまして、信頼できる病院を紹介しておきました。一応今のところは危機を脱したようですが、まだ安心はできないような状態です。このことがあってから、本人とご両親とも「これではいけない」と思うようになられたようですね

 そこで皆さんに問題を提起しますが、「子供自立させるために『口も手も何も出さない』」ことは果たして有効な手段でしょうか?私はこれは違うと思うのですね。できるようになって初めて手が離れるのであって、自立できないうちから手を離してしまったら、結局自立できないのです。

 これはキャンプについても同じです。楽しくなければキャンプではありませんが、楽しいだけでもキャンプではないのです。自分がどう生きていくのかをしっかりと自覚して、目標を見据えていかなくてはなりません。将来IDDMの子供たちが自立できるよう、必要なときに必要なだけ口と手を出すこと。これをキャンプにも活かしていくべきです。

 例えば、私の子供は知恵遅れの障碍を持っていますが、そのことを踏まえ、我々親が死んでも自立して生きていけるように、常に訓練しています。繰り返しになりますが、子供がまだ何もできないのに手を離すことが自立ではありません。手を離すことができるようになって初めて自立できたことになるのです。親や先達としての責任を放棄すること、投げ出すこととは違うので、そのことは皆さん心しておいてください。

 HbA1cが10%のとき、親は何も叱らない方がいいとするのではありません。先ずお互いに気持ちが通じなければなりません。そしてそのためには、それぞれの役目を果たしていることが必要です。私がIDDMの人の家族と会うときには、なるべく父親と母親の両方と会うようにしていますが、これは両親が対等に役割分担できるようにとの配慮からです。血糖値が高いあるいは低血糖が頻発するなど、コントロールが上手くいかないようであれば、そのことが家族としての話題に上るような雰囲気がないとダメですね。


 次にふたつ目の話題です。みなさんは他人の疼(いた)みが判りますか?

 ここでは例としてBさんにご登場願います。Bさんは20才台の女性で、中学生時に発症され、現在腎症があります。親御さんは熱心な方で、一生彼女の面倒を看るつもりだと仰しゃっています。しかしここで見方を変えてみると、例えどれだけひどい合併症を併発することになっても、最終的には自分の力で生きていかねばならないことに変わりはありません。また、IDDMが理由で就職できないと憤りを感じておられるのですが、これも一歩退いて考えてみると、もし障碍があってもその人を受け容れること、BさんがBさんであることをそのまま受け容れるような社会を作ることの方がもっと重要なはずです。

 このように、それぞれがそれぞれの人格を認めなければならないことが判ってもらえると思います。一方的に「認める!」では通らないのです。

 DMで視覚障碍があり車椅子に乗っている方がいるとして、その人が自分らしい生き方をしようとしているとしましょう。他の人はその人が望む方向へと進んで手を貸すことができるでしょうか。これは「家族が抱え込む」だけで解決するような問題ではありません。以前、失明した方を花見に誘ったことがあるのですが、その方は花が見えなくても「とても楽しかったです」と大変喜んでおられました。

 自分を理解するとともに、他人のことも理解する。自分には自分の夢があるし、他人には他人の夢がある。それが「他人の疼みが判る」ことなのです。しかし、自分らしい生き方をしようとしたとき、やはりDMは明らかに「障害」となります。18才以上で発症したIDDMの人も、自分にできることは何かをよく考えて下さい。これを機会に、自分達の権利が侵害されないよう、然るべき機関に対して働きかけするのもひとつの方法です。

 みなさんはその時その時一所懸命生きていますか?「IDDMのために就職がダメになった」とか、「IDDMのために人生が狂った」などとは思わないでください。外国なら、例えIDDMでも、コントロールがよくて人間的に魅力があれば、必ず社会的に評価されます。しかし、もし合併症を起こして周囲に迷惑を懸けてしまうのなら「IDDMであることのハンデ」からは目をつぶって通れなくなります。

 DMがあっても、それを含めた自分の方向性を見据え、充実した人生を送らねばならないと思います。DMがあれば何が起こるかは判りませんので、他の人から正しい理解をして欲しければ、まず自分自身が正しい理解をしなくてはなりません。その時々に方向を修正しつつも、障碍を持っている人が自分らしい人生を生きていけるよう、手助けすることを忘れないようにしてもらいたいものです。




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