山本覚馬(やまもとかくま)
明治期の京都府顧問。旧会津藩士。元治元年会津藩主松平容保が御所の守護職として上洛したのに伴い入京。鳥羽・伏見の戦いで薩摩軍に捕らえられ薩摩藩邸に幽閉された。幽閉中に新しい時代に対する考えをまとめた論文「管見」が薩摩の小松帯刀の目にとまり、明治2年京都府顧問となる。槇村正直のブレーンとして産業振興、教育の普及など京都復興に奔走、ワグネルら外国人技術者を起用して勧業場、集産場、紅工場など京都近代化の施設を次々に建設した。明治5年博覧会会社を設立して開いた第一回京都博覧会の開催に力を注ぐと共に、自ら英文の案内文を刊行、海外に京都の産業を紹介することに努めた。明治8年薩摩藩邸に同志社英学校を開設。明治12年には京都府会開設の初代議長に選出される。明治17年同志社大学設立発起人に連名、同志社校長代理となる。また明治23年新島襄の死去に伴い、臨時総長に就任した。








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