角倉了以(すみのくらりょうい)(1554〜1614)

安土桃山・江戸初期の豪商
森鴎外の同名の小説で有名な高瀬川。
京都の木屋町を独特な風情にしているその高瀬川は、角倉了以・素庵そあん親子によって開かれた運河である。
角倉了以は祖父の企業家精神と、医者であった父の科学的精神をうけて、朱印船で海外交易(角倉船)を行ったり、国内では技術と工夫を駆使し河川疎通事業を進めた。海外交易での主な相手は安南国(現在のベトナム)。その結果、莫大な富を得た。
また通船のための河川疎通事業では、富士川・天龍川・大堰川・高瀬川等の開削がある。

写真提供:淡交社・京都大事典


高瀬川について


京都の真ん中を流れる鴨川は、たびたび洪水を起こし「暴れ川」の異名を持っていた。そこで、了以が考え出したのが運河、高瀬川である。二条から伏見まで全長10500メートル程の運河を築いた。川の造りは大変合理的で、底の浅い高瀬船(舟底の浅い、浅瀬用の船の名前)に合わせて浅く作られており、川幅も船が通ればそれだけで水位が上がるように狭くつくられている。その運河を利用して高瀬船が運んだものは、米、炭、材木、塩等。さらに、政治の中心が江戸に行き活気を失っていた京都に、浪花(大坂)の活気をもたらしたことであった。


都の人列伝