明石博高(あかしひろあきら)(1839〜1910)
四条通堀川西入唐津町の医薬商の家に生まれる。慶応元年「京都医学研究室」、二年「煉真舎」を組織して理科学、薬学を研究。有馬温泉や京都周辺の鉱泉の成分分析を試みた。京都府参事のち知事の槇村正直、京都府顧問の山本覚馬のすすめで京都府に出仕、彼らと共に京都振興の諸政策を打ち出す。京都博覧会の開催、舎密局、パピール・ファブリク、総合病院、観象台の設置はわが国最初の試みだった。西陣織復興のため織殿、染殿を設けて新しい技術導入をはかり、また円山に吉水温泉を建てるなど文化観光策にも力を注ぎ、多岐にわたる事業を展開した。明治14年府を退いて実業界に入り、後に医業に専念した。


片岡直温(かたおかなおはる)(1859〜1934)
高知県生まれ。明治13年上京、伊藤博文に知られ、その縁で内務省に入る。明治22年官界を去り、弘世助太郎らと共に「日本生命保険会社」を創立、副会長に就任。明治36年より大正8年に至るまでの17年にわたって社長を務めた。大正4年には「都ホテル」の社長に就任。「都ホテル」は明治23年開業の「吉水園」を明治33年に全館洋式に改装、名称変更したもので、大正4年に片岡らの発起で新たに「株式会社都ホテル」が設立された。また関西財界で活躍する傍ら、明治26年衆議院議員に選出。当選8回に及び、第二次加藤高明内閣の商工大臣、第一次若槻内閣の大蔵大臣となる。

都の人列伝