木屋町通

角倉了以が、慶長16(1611)年に開削した高瀬川の東側に整備された。当初は、「樵木(きりこ)町」と呼ばれていたが、高瀬舟が運んでくる材木の倉庫が立ち並ぶようになり、いつしか「木屋町」という名称になった。現在も紙屋町、鍋屋町、米屋町など、当時の賑わいを彷彿とさせる地名が木屋町周辺に残されている。通 りを往来する旅人や商人を目当てに、料理屋や旅籠、酒屋などが店を構えるようになり、江戸時代中頃には酒楼娯楽の場へと姿を変えていった。幕末には勤王志士たちも密会に利用したため、しばしば血なまぐさい暗殺の現場となり、大村益次郎や本間精一郎などが殉難している